私のバイオリン奮闘記  その1

T 1977年から1980年まで

 私がバイオリン職人になるきっかけは信州松本のモーリスギターの工場で働いていた時の
事である。毎日来る日も来る日も、工場ラインの中でギターの指板に貝のポジションマークを
入れる仕事やニス塗りの終わったギターを磨く作業をやっていた。仕事はいやではなかったが
毎日同じことの繰り返しなのでやはり飽きてしまう。しかし、ちょっと油断するとチャップリンの
「モダンタイムス」のように隣にはやり遅れた製品が山積みになり、ラインの反対側の人には
製品を早くまわせとせきたてられる日々が続いていた。
 ある日、町を歩いていたら「バイオリン教室」と看板がかかっていた。私はバイオリンが弾け
たらなんと楽しいだろうと思い、入門を決めた。その日から、平野先生にバイオリンを習うこと
になった。レッスンの時先生が弾かれる美しい音に魅せられますますバイオリンが好きになった。
その後何ヶ月経った時、先生が「私の知り合いにバイオリンを作っている人がいるのでもし良け
れば見学に行くこと事ができますよ」とおっしゃった。ある日レッスンが終わってからバイオリン
職人(故臼井満政氏)の工房に連れて行ってもらった。そこでは臼井氏がもくもくと土蔵の中で
バイオリンを作っておられた。そこでは一人の職人がすべての工程を全部一人でおこなっていた。
私が働いている工場ラインの仕事とは対照的だった。それを見た瞬間に、「私がやりたい仕事
はこれだ」と決まった。私はまもなく工場を辞めた。バイオリン作りは生活が大変なのでやめた
ほうが良いという臼井氏の忠告を受けていたが、それに反して私は臼井氏の工房に弟子入り
をすることになる。仕事場の土蔵の向いにはアパートがあり、そこに住み込みの弟子となった。
昼間はバイオリン作りを学び、夜はアルバイトに出て生活費を稼いだ。アルバイト先はりっぱな
料亭で給仕役が私の仕事となった。そこでは「鯉のあらい」の注文が多かった。注文が来ると
料亭の離れの大きな池まで行って、柄の長い網で逃げ回る鯉をすくい取り、大きなエラに指を
引っ掛け、跳ね回る鯉を逃がさないように気をつけて調理場に運ぶのも仕事だった。うなぎの
時はそう簡単にいかない。池まで行けば生簀が沈めてあり、フタを開ければうなぎがいっぱい
いる。注文の分だけうなぎを採るのは難しい。うなぎを掴みながら生簀を元の位置に戻さなけ
ればならない。調理場までは距離もある。いったん手からうなぎが抜け出すと、もう捕まえるの
は至難の技であった。大きな店だったので宿直制で月に何回かは従業員2人で泊り込みをした。
そのときは好きな物を好きなだけ食べてよいことになっていた。それは嬉しいことであった。
 臼井工房では来る日も来る日も刃物の砥ぎが続いた。あまり続けて砥ぎばかりしていると
刃物だけでなく、自分の指も砥いでしまい、指先はピンク色になり、そのうち出血するに至る。
それでも次の作業はなくまた砥ぎが続いた。今になれば、弟子が来れば基本が大切なので
徹底的に刃物の砥ぎを教えることは理解できる。その当時の私は、早くバイオリンを作りたい
ばかりで、何ヶ月経っても砥ぎだけでは、いつバイオリンが作れるのかと不安が募った。
最初臼井氏が大変だからやめたほうが良いと忠告してくれたことがわかってきた。
夜働いて、昼間バイオリン作りを学ぶのも大変なものだ。それでも砥ぎの日々は続いた。
あまりの厳しさに私は尻を割る。
 その後、私は京都でコントラバスを作っている茶木弦楽器工房で働きはじめた。ここでは
大先輩の宮前氏と東氏が中心となり、その他数人の弟子がいて計5〜6人で毎日5本くらいの
コントラバスを作っていた。私は新入りだったので、楽器は作ることができず、コントラバスを
出荷する時の箱と部品のテールピースと駒を作るのが仕事だった。この工房では部品と言って
も、長さ3m以上厚さ7cm以上もある大きな材木から切り出して作るのであった。駒も工場の
半完成品を使うのでなく大きな材木から削りだす自社製品だった。毎日が戦争のように忙しい。
私の仕事はトラックに乗って出荷用の木枠材料の買出しも含まれる。2m×3cm×2cmの角材を
大量に買って来て毎日5本のコントラバスの木枠作り、多い時は7〜8本の日もある。短時間で
大きな箱を作るには、1本の釘を打つのにも流暢にトントントンと叩いていては時間がかかる。
1本の釘は力強く一振りで叩き込まなければ速い仕事はできない。これも経験者となると腕を
機関銃のようにすばやく振りながら、そして体を中腰のまま次の仕事へと移動させる。
それと同時に左手は桟となる柱を次の工程にあてがっていく。これは職人の技である。ここで
仕事をすると、木工全般の技術が学べた。力のみなぎる職人、たくましい職人になることを
先輩達から学んだ。故茶木純啓氏が考案したコントラバス製作方法は外型に横枠を組み付け
荒採りされた表板と裏板を接着し、外型をはずして横板に沿って表板裏板のアウトラインを
成形していく。この方法はイタリア人が昔から行っている内型方式とフランス人が考案した
量産に適した外型方式を兼用している。きっと試行錯誤の中で生み出された、コントラバスを
作る
最善の方法だろう。この方式により小さな工房から大量のコントラバスを生産した。
故茶木純啓氏は日本のコントラバス製作者の歴史的人物である。
 その後私はヨーロッパではバイオリン製作学校があることを知る。京都にはイタリア、ドイツ
フランスなどの海外の情報が入手できる機関がある。そこで入手した情報をを頼りにテントを
担いで3ヶ月のヨーロッパ外遊に出る。東はウイーン西はグラナダ、北はベルゲン、南はナポリ
まで色々な楽器博物館や美術館を廻った。当時は海外情報も少なく、テレビで見られると言え
ば「兼高かおるの世界の旅」くらいであった。だからどの国に行っても主要な観光地以外は
生まれて初めて見るものばかりで新鮮だった。言葉はほとんど出来ず少しの英語だけだった。
だからどこの国に行っても、言葉の理解度の条件が同じなので、スペインに行こうがオランダに
行こうが北欧に行こうがどこに行くにも不安はなかった。今はヨーロッパに行ってもイタリア
から出ることはほとんどない。不自由な思いをするのが厭なのだろう。若いということは素晴ら
しい事だった。ミラノ滞在の時、ある夕方、まわりは薄暗くなっていた。地下鉄から出て少し歩く
と大きな芝生の広場があった。周りを見回しても人影が少なかったし、たまたま目の前に大きな
下り坂があり、人目につかない場所があったのでそこにテントを張った。ミラノ市内にはユース
ホステルはあったが、これで一日分の宿代が節約できたと思いぐっすり眠った。翌朝、誰かが
テントを叩き、イタリア語でまくしたてていた。テントのチャックを開けて顔を出すと、二人の
イタリア人は2倍速でしゃべり始め、音量は4倍になっていた。よく見ると立派な警察帽をかぶり
両脇に自動小銃を抱えていた。イタリアのカラビニエーリであった。私彼らの話すイタリア語は
ほとんどわからなかったが、ここからすぐに出て行けと憤慨していることはすぐに解った。
周りをよく見るとそこはフランチェスコ城の堀の中であった。私も驚いたが、そこで黄色いテントを
張り、出てきた顔が東洋人だったので、向こうはもっと驚いただろう。
 ミラノ中央駅からマントバ行き急行に乗り、南東に1時間15分行ったところにクレモナがある。
人口7万人の小さな町である。バイオリンの創始者アンドレア・アマティが16世紀中頃この街
で弦楽器製作を始めた、その100年後3代目の孫のニコラ・アマティもバイオリンを作り続け
そのときの弟子で下働きをしていたのが、ストラディバリである。歴史の町であり今も100人
以上の凄腕のプロのバイオリン作りがいて、100人のバイオリン作りを志す学生がいて、
そのほかに100人のもぐり(労働許可をとらない)の自称バイオリン作りがいる。世界でも
類をみないバイオリン職人の王国である。私が行った1980年代初期のバイオリン作りの
数は今の1/3くらいだった。そこで生活している人間も現在のEU(ヨーロッパ共同体)の
中の一国イタリアではなくいろんな国がひしめきあうヨーロッパだった。国境には憲兵が
いたし、貨幣も各国独自のものがあった。国家色も今よりはっきりしていたし、イタリア国内
も地方色がはっきりしていた。ロンバルディア人とトスカーナ人は全く違っていたし、ナポリ人
は外国人のようだった。クレモナのバイオリン作りもモッラッシー、ビソロッティが我こそが
イタリア随一だと胸を張り合って腕を競い合っていた。二人ともまだ50代前後と若くエネルギー
がみなぎる気の荒い職人であった。
 1980年夏、私はクレモナのキャンプ場にいた。その頃ヨーロッパでは夏休みの1ヶ月は
家族連れでオートキャンプをする人が多くいた。私のテントの横にもフランス人家族がいたり、
ドイツ人家族がいた。大きなテントの傍には申し合わせたように犬もいた。一家総出で
バカンスを過ごす、ひと昔前のヨーロッパの一場面だった。秋になり、私はクレモナの
バイオリン製作学校の手続きを済ませ、翌年の秋には学校から入学要綱書を日本に
送るとの返事をもらった。後は日本に帰り、お金を貯めるだけとなった。
 帰国するとすぐに私はアルバイトを始めた。当時日本では肉体労働の仕事は多くあり、
日給もたいそう良かった。私は体力には自信があった。しかしこの仕事をしてスコップや
つるはしを持つと、スポーツをする時使う筋肉とこの種の仕事で使う筋肉は違うのか、
やせた小柄の人と同じように仕事をするのも精一杯だった。何事もその道にはその道
の人がいることを体験した。
 大阪の北浜に丸一商店がある。ここは古くからある老舗の弦楽器輸入商である。
私はそこに行き、「バイオリン職人になりたいのです。一年後にクレモナに行きます。
バイオリンに関する知識を身につけたいのです」とお伺いをたてた。そしてここ数年の
出来事を説明すると、社長は「サムライですな。時間があるときはいつでも来てよろしい
ですよ」と言ってくださった。クレモナに行くまでの1年間は週1回、私は丸一商店に出入り
することになる。雨の日は私のアルバイトが休みなので週2回行く時もあった。ここでは
弦楽器の仕事はデリケートなものだと学んだ。駒や魂柱は、1mm以下の仕事内容で音に
影響を与えていたのである。その頃の京都での私のアルバイトは建築現場でセメントを
混ぜたり砂利を敷き詰めたりと力仕事ばかりだった。週に6日は下腹に力を入れて働き
週に1日は息をこらし、指先に全神経を集中させて弦楽器製作を学んだ。

        
 

U 1981年から1987年まで

 1981年の夏、イタリア国立クレモナバイオリン製作学校から届いた入学試験日通知を
握り締めイタリアに渡った。今度はテントはなかったが大きな袋に自転車を分解して
持っていった。1870年大阪万国博覧会での時、私がイタリア館に入るとロードレーサーが
展示してあった。たしかコッピ(FASTO COPPI)かジモンディ(FELICE GIMONDI)が紹介
されていてドロミーテDOLOMITEを走っている大きな写真が飾ってあった。当時高校1年生の
私はいつか自分もドロミーテの山々をこの写真のように走りたいと強く思った。バイオリン作り
とは別にそれを思い続けて11年が経ち運よくチャンスが来た。これはまたとないことだと思い
自転車をイタリアまで持っていった。クレモナに着き、バイオリン製作学校の事務局に行き通知書
を見せた。しかし、状況は一転していて、当時はアジアからは年に1人しか入学出来ず、この年の
入学者はもう決定していて、私は試験すら受けることも出来なかった。私は不条理と思ったが、
周りの人々に聞いてみてもイタリアではそんなことはよくあることだとの返事が返ってきた。
 その後、
ペルージャの外国人イタリア語語学学校に入学することになる。クレモナ在住の
石井高氏からは「ここイタリアにおいては日本で考えられないこともよく起こること事である。
しかし、今の時代ではどんなことになっても、人間がのたれ死んだということはほとんど聞かない。
どんなことが起ころうと希望を持ってやれば夢は叶う」と励まされた。
 
袋に入った自転車を持ってペルージャに行った。行ってみるとそこには多くの日本人が
イタリア語を学びに来ていた。安いアパートを決め、学校の入学手続きを行った。当時は
今と違い、当地で手続きをするだけで簡単に入学できた。今では日本国内で留学ビザを
取得しないと入学は不可能だろう。語学学校に行かない時はアパートの一室でバイオリンを
作り始めた。横板を曲げるには道具が必要だ。鉄くず屋に行ってベッドの足だけを買って
そのパイプをストーブで暖めて横板を曲げた。作業台は50cm×30cmくらいの折りたたみ
脚立を購入し使った。その机を壁に押し当てると表板裏板のハギも何とか出来た。当時は
リュックサック1袋がすべての製作道具で丸ノミ数本、平ノミ数本、豆カンナ2個、15cm位の
カンナとのこぎりだったが、それでバイオリンが作れた。1号白木バイオリンは1ヶ月で完成
した。そのバイオリンを持ってローマの有名なバイオリン作りの故ジュゼッペ・ルッチ
GIUSEPPE LUCCIの所へ行った。「バイオリンを作りました。助言を下さい」と手土産を提
げていった。彼は私のバイオリンを見るなり、「お前はバイオリンが弾けるのか」と尋ねた。
自分を有能に見せたかったので、「弾ける」と答えた。彼はこのバイオリンには大きな問題が
あると言って糸巻きを指差した。右と左が逆についていると指摘した。言われてみると前日
そのバイオリンに弦を張り試奏すると、第1ポジションで人差し指が糸巻きにあたりとても弾き
にくかった。しかしそれには理由があった。私はリュックサックの中からクレモナの市役所で
もらったストラディバリ1715年クレモネーゼの写真が写っている観光案内所パンフレットを見せた。
信じがたいことだがその写真のスタンプが逆になっていたので、糸巻きも左右逆に写っていた。
マエストロルッチはその写真をしげしげと見てこのようなものを作るのがイタリア人だとイタリア人を
嘆いていた。そしてこの小さな写真の糸巻きまでよく見ていたと誉めてくれた。しかし
私のバイオリンに関する知識が暴露された。そして、f孔、渦巻き、ふくらみはこうして
作ったほうが良いと自分の作ったバイオリンを取り出し助言してくれた。帰る前にニスは
どうしたらよいかと尋ねたら、クレモナに行けば私の弟子のジョバッタ・モラッシーGIOBATTA
MORASSIが店をやっているのでそこで何でも揃うと教えてくれた。そして絵葉書にこれを持って
モラッシーの所へ行けと紹介文を書いてくれた。
 
後日モラッシーの店へ行きニスの塗り方を聞いた。そして数種類の樹脂を買いペルージャ
に戻った。部屋に着くと早速、紙コップにアルコールを入れ、乳鉢ですりつぶした数種類の
樹脂を加えた。当時は何も知らなかったので加熱もせず、10分後それをバイオリンに塗って
いた。何日かそれを繰り返していると少しずつオレンジ色になっていった。ピカピカと光る
事はなかったが、一応ざらっとしたオレンジ色のバイオリンになった。その1ヶ月後、2号が
出来てローマのマエストロルッチのところへまた行った。3ヶ月後には3号を持ってまた見せに
行った。
 ペルージャ生活が6ヶ月を過ぎた頃、クレモナ在住の先輩の内山昌行さんの紹介で私は
マエストロ ステファノ・コニアStefano Coniaのところでバイオリン製作を学ぶことになった。
すぐに引越しとなり、また袋に入った自転車とリュックサックを用意したが今回は折りたたみ
脚立も増えていて一人では運べない荷物となっていた。ペルージャで友達になった八重樫氏は
ぺルージャで語学を学びながらも車を持っていた。引越しは彼が助けてくれた。ローマの
バイオリン作りのマエストロルッチを知ったのも、彼がペルージャからイギリスに旅行に行った時に
私のためにと買ってきた雑誌ストラッドStradを見たからであり、それまで私はルッチのことは
何も知らなかった。彼との出会いにより、バイオリン職人への夢は急速に近づくことになった。
 マエストロコニアの工房では来る日も来る日も必死になってバイオリンを作った。仕事内容は
バイオリンの荒取りだったが、飽きることはなかった。まめが出来てつぶれても荒取りは
続いたので初めのうちはいつも手がひりひりしたが、数ヶ月経つとだんだん手が強くなり
痛みは感じなくなった。当時マエストロはクレモナバイオリン製作学校のニスの教師をしていた。
そのおかげもあってその年の9月のクレモナバイオリン製作学校の入学者は私に決定した。
それから数年間は学校が続き夜間学校の弓製作コース、ギター製作コース、コントラバス
製作コース、楽器修理コース、彫刻のコースとたくさんのことを学ぶことになる。
 バイオリンは1本2万円で作り続け、生活を支えた。その頃はどんなものが良いバイオリンか
とは判らず作るだけで精一杯だった。一本バイオリンが完成すると自分ひとりで作れたことが
嬉しかった。それが売れて現金になるとまた嬉しくなり、1本のバイオリンで2回の楽しみが
あった。
 
クレモナの1回目のvia Dulciaの家は一部屋6畳のみで共同便所で家賃は月3500円だった。
2回目のvia Casteleone家は2部屋となり家賃は8000円となったが、仕事部屋と寝室が
分かれたので嬉しかった。しかしまだ共同便所でお風呂もシャワーもなかったので、大変
だった。週に1回の市営プールが私のお風呂代わりとなった。季節や悪天候にかかわらず
定期的に規則正しく通ったので、そのうちプールの改札係のおばさんと世間話をするようになる。
そのやさしいおばさんは私を苦学生と理解したのち、ウインクをしながら回数券の切符を切る
ふりをするだけで毎回素通りでできるようにしてくれた。ある日鉄くず屋で生活用品を探していたら
くずの山の中に大きな浴槽が横たわっていた。主人と交渉し1000円で購入し2m近くある大きな
重たい浴槽を家まで運んでもらった。次の日から食卓テーブルの横にはバス浴槽が置かれ、
ガス給湯器からお湯を引き、あこがれの家での入浴生活が始まった。快適な日々は過ごせたが
ある夏の日、
大家にバス浴槽を部屋に入れた事が見つかり、契約違反だといってその家を追い
出される事になる。
 1983年秋からマエストロジョバッタモラッシー工房に弟子入りすることになった。息子の
Simeoneはバイオリン製作学校の学生で、マエストロの工房ではNicora Lazzariが10年以上に
わたり仕事をしていた。私はよくマエストロからもっと丁寧に楽器を作れと注意されたが、Nicolaは
昔から仕事が丁寧すぎて、よくマエストロからもっと早く作れと注意されていた。両極端な職人が
一つの工房で仕事をしていた。日本人以上に根気があり丁寧な仕事をするイタリア人が
いることも
知った。マエストロモラッシーと私の兄弟子にあたるニコラ・ラッザリからバイオリンのふくらみや
きれいな渦巻きの作り方を学ぶことになる。
 その頃、夜間はコントラバスの学校に通っていて、同級生にイタリア人も来ていて、私が今月
一杯で家を出て行かなければならず安い家を探していると相談すると、「わかった」と答え
翌日クレモナ郊外のPicenengo村に連れて行ってくれた。何kmと続く畑の中に1軒の古い大きな
建物があった。それは家畜を飼うサイロ付きのカッシーナ(CASSINA)と呼ばれる農家だった。
50m×100mもあった。ここなら「ただで住んでもいい」と鍵をもらった。住んでみると部屋数は
数えられないくらいあり、らせん状の階段をあがると展望台に出てあたりが一望できた。まるで小さな
お城のようだった。ただし電気はあったがガスと水道がなかった。50M離れたところには井戸があり
その水で生活できた。2個のバケツに水を汲んで運ぶのが毎朝の日課となった。毎朝部屋に仕掛け
たとりもちには多くの野ねずみがひっかかった。そこでの生活は運悪くその年の冬は何十年ぶり
かの大雪で寒波も押し寄せた。りっぱな家だが何百年も経っているので、隙間風がヒューヒュー
吹いた。仕事中部屋の中で暖炉で暖めたニカワの水がこぼれると、1分もすると氷となるほど
寒かった。寝るときはベッドの中に寝袋を入れ、服を着たままその中に入って眠った。
朝方寒さに絶えられない時は、始発で開くクレモナ駅まで行き、待合室で暖をとった。自転車に
乗ると駅まで15分で行けた。体が温まると家に帰り仕事をした。早朝でない時は図書館にもよく行った。
そこに行けば暖房も椅子も用意されているからだ。ある日その図書館の館長が側に来てこう言った。
「君は誰も来ないこんな雪の日でもここに来て勉強するとは熱心人だ」と夕食に誘われたこともあった。
後で聞くと「会館と同時に寒そうな顔をして図書館に入り、本は抱えているものの、いつもストーブの
前でうとうとしている青年がいるので、あたたかい食事でもご馳走してあげようと思った」と私に言った。
 春になり、その厳しい冬を生き抜いたときには何か自信がついていた。特殊部隊のサバイバルを
体験したのと似ていたようだ。翌年はこの農家を紹介してくれた友人に「ここでので生活は満足
している。ただ家賃を払うので水道水と都市ガスが部屋で使えるようにと頼んだ。半年後何十mの
長いガス管と水道管が引かれ、蛇口をひねると家の中でも水とガスが使える文化生活となった。
Picenengo村のあのカッシーナでガス水道無しであの寒い冬を生き抜いた東洋人がいるらしいと
のわさは徐々にクレモナのバイオリン作りに拡がっていった。その後ポツリポツリとそのうわさを
確認しようとバイオリン作りがやってきた。そのうちベルギー人が住み、スェーデン人、ドイツ人
ナポリ人が住むようになる。その中でも私はあの寒い冬を乗り越えた人として皆から一目おかれ
ることになる。Picenengo村のカッシーナはインターナショナルなバイオリン職人のアパートに
なっていった。

 私はそこで多くの楽器を作った。出来た楽器はミラノのコンセルバトーリオにも売りに行った。
今では信じがたい話だが、急にクレモナからバイオリン職人がやってきてレッスン中にドアを
ノックして「バイオリンを売りに来ました」と話が始まる。バイオリン演奏の教師も生徒もそこで
レッスンは中断され、持ち込まれたバイオリンの試奏会となる。音がよければ値段の交渉へと進む。
時には他の生徒でバイオリンを探しているのがいるからと試しに弾いてみてくれる先生とか
チェロを探している友達がいるから住所を知りたいと聞いてくる生徒もあり思わぬ展開になったこと
もある。極めつけは一度バイオリンを売った生徒とばったり廊下で出会い、彼がビオラに転向して
いたのでその後彼にビオラを売ったことがある。廊下を歩いているだけで楽器が売れた幸運もあった。
しかし良い事ばかりではない。あるときは友達から安くて良い楽器だと紹介されたので、試しに弾いて
から購入を考えてみたいと言われ弾いてみたが、良く鳴らなかったと評価されがっかりしたこともある。
どちらかといえば悪い評価をされたことの方が多かった。しかし今から思えば、この学校でよく鳴る
楽器は好まれ、鳴らない楽器は見向きもされない事を身を持って体験する。それは今も同じだ。
楽器作りの宿命だろう。
 ある日私はミラノ市立音楽学校にビオラを売りに行っていた。長い廊下にはいくつもの個人レッスン
室があり、私は廊下の一番手前から順番にドアーをノックして入っていった。何回目かのレッスン
室で出会った初老のビオラ教師はブルネッリといってスカラ座のオーケストラでもビオラを弾いている
人だが、彼はこの音楽学校でもビオラを教えていた。
「君はわざわざ外国からイタリアまで来て楽器製作を学んでいるのか?今はどこで仕事をしている
のか?」と聞かれた。私は「クレモナに住んでいてマエストロ・コニアとマエストロ・モラッシーに4年間
学び、今はクレモナで一人で楽器を作っている」と答えた。「このビオラはアメリカの楽器コンクールで
賞をもらったものです」と見せた。彼は私のビオラを試し、「まずまず良いが、もっと多くのことを学び
より良いビオラを作るようになったら良い。私はパルマのスコラールベッツァのビオラを弾いた事
があるが、とても良い音がしていた。あのような音の出るビオラを作れるように君も色々な人から
色々なことを学べば良い」と忠告してくれた。
 帰りの電車の中ではもう一度学校に入学して、楽器の完成度を高めようと決めていた。普通の
楽器ではなく良い楽器を作れるようになろうと強く思った。翌日にはパルマ音楽院の事務局に
行って、バイオリン製作科入学手続きを行おうとした。しかし今期は締め切ったので来年来なさい
と返答された。次の日クレモナからもう一度電話で尋ねたが同じ返答をされた。でもそのとき
イタリア生活も4〜5年目に入っていて、おまけにガス無し水道無しの生活も体験していて、へこたれ
なくなっていた。私はローマ文部省に電話をして、パルマ音楽院の入学締め切りが遅れたが
ちかじか行われる入学試験を受けたいとありったけのイタリア語単語を並べて懇願した。前日の
夜に用意した紙切れを読み続けた。電話口の係りの人は今から言う人宛にそれを手紙に
書いてみなさい。ひょっとしたらあなたに幸せがやってくるかもしれないと言ってある名前と
住所を教えてくれた。それから2週間後パルマ音楽院から入学試験日の通知が届いた。
 5年前のクレモナの学校入学のあだ討ちが出来た!
 パルマ音学院バイオリン製作科の新入生には中国人のツェン・クワンと私が入っていた。
1年上級には伊東三太郎氏がいた。彼は1981年にクレモナの学校に入学できなかった多くの
日本人の中の一人であり、お互いよく知っていた。
彼とは2007年東京の弦楽器フェアのパーティで
ばったり会い、25年ぶりに日本に帰国して地元の仙台で仕事を始めることを知った。
 パルマの学校はクレモナと比べるとだいぶ違っていた。クレモナは100人近いマンモス校で
設備は万全、かたやパルマは新学期の始まりにマエストロスコラールベッツァがこう言った。
「みんなが一斉に授業には出ない方が良い。一人か二人は休んだ方が良い。なぜなら生徒は
10人もいるが、この学校の作業机は8台しかないからだ。すでに生徒が多すぎる。少ない生徒の
方がちゃんと教えられる」 設備は刃物を研ぐグラインダーも穴を開ける時のドリルも手動式のもの
だった。電化製品は作業机のランプだけだった。でもかえってそれは良かった。ネックを切るのも
手ノコしかないのだから、器用にならざるを得なかった。マエストロスコラールベッツァは授業の
初日に私に言った。「お前はクレモナでバイオリンの基礎を学んだのか。それはお前にとって
大変不幸せなことだ。全てを忘れ、ここで一から学ばなければいけない。バイオリンの歴史は
アマティ、ストラディバリから始まり、近代ではミラノ派ビジャッキ、アントニアッツィ、オルナーティ、
ガリンベルティなどで戦前にイタリアのバイオリン作りの質を高めるため、パルマでマエストロ
ズガラボットが始めたものだ。近年は私一人が何十年もここで教えている。イタリアのバイオリン
製作はクレモナではなくパルマが本物だ。パルマとクレモナは天と地の差がある」と言った。
でも実は、そういうマエストロスコラールベッツァも50年前、マエストロモラッシーやマエストロ
ビソロッティーと一緒に机を並べて学んでいた同窓生である。この3人は若い時仲が
悪かった。
今は3人とも壮年期となり、時には異常に仲良くなったりする。20年ほど前、ポーランドの
コンクールでマエストロスコラールベッツァとマエストロモラッシーが審査員となった時、
クレモナ-ポーランド往復1,000kmを60歳をこえた二人が仲良く車を運転して行くなど不思議な
間柄である。
 パルマの学校では生徒が少ない分、家族的でもあった。マエストロスコラールベッツァは
自分の家で作った楽器を学校に持ってきて、楽器作りを説明してくれた。板の厚みや膨らみや
表板裏板の重たさなどクレモナとは違っていた。ライニングの仕上げ方も違っていた。同じ
バイオリンだが細かく見ると皆違っていた。いわゆるスコラベッツァスタイルだった。
 私は卒業後労働許可を取得してクレモナでバイオリン職人として独立する。

V 1988年から1991年まで

 私は生まれて初めて看板を作った。Liutaio IWAI TAKAOと書いてある小さなプレートだったが、
ドアの正面に貼り付けると私にはいつも少し光って見えた。でも注文など来るはずがなく、いつも
楽器が仕上がるとミラノ、ローマ、遠い所はドイツまで売りに行った。ある時ミラノでチェロを売った
が、支払いは分割ということになり1/3をその場でもらった。翌月残額を受け取りに行ったらその
家族は引越ししてもぬけの殻だった。隣の人に尋ねてもどこへ引越ししたか知らなかった。ミラノ
市役所に行って事情を説明した。海外に引越しでもしていない限り住所はわかると言われた。
数ヵ月後ミラノ市役所から新住所の通知が来た。私は残金の取り立てを成功させるために、相手
に合わせて役者にならざるをえなかった。私がその家のインターホンを押すと相手がドアーを開けた。
相手のあまりの驚きの表情はイタリア人らしくなかった。私は言った。「あなたが私にしたことは
許しがたい。残念だが強硬手段をとるしかなかった。私の友人の弁護士にたのみ、今日のあなた
の返事次第であなたは私にチェロ代金とそれに関する慰謝料で倍の代金を払わなければならなく
なった事を伝えに来ました。ただ明日中にチェロ代の残金全額を支払うならばそれで全てはご破算
となります。あなたの好きなほうを選んでください。私はどちら
でも良いです」と話していると、チェロ
を弾いている彼の娘がその話を聞いていて泣き出し、父親と口論になった。その父親は娘には何も
話していなかった事がわかった。彼はあわてうわずった声で「明日全額払うので、1日だけ待ってほ
しい」と申し出た。翌日チェロ代金の残額分2/3は無事私のものとなった。現在その彼の娘はRAI
(イタリア国営放送)、日本で言うNHK交響楽団のようなオーケストラでチェロ奏者として、私のその
チェロ弾いている。
 ある日、ビソロッティの工房に行った時その話をした。するとマエストロは「そうだ。楽器を左手で
持って相手に差し出せ。そして相手がお金を出したら、お前が右手で札束を握ってから、楽器を
持っている左手をゆるめ楽器を渡せ。お金を目の前に出されても自分のものとは限らない。
間違ってもお金をもらっていないのに楽器をわたすな!そうすればそんな事にはならない」とよく
ある出来事のような口調で私に忠告してくれた。日本ではそんなことはないが、その時はあらためて
自分はイタリアに住んでいるんだと痛感した。
 クレモナの生活も7〜8年も経つと要領がわかってきてそれなりに楽しくもあり充実感もある。
何しろ来る日も来る日も楽器を作り続ける毎日が続くだけである。常に工房には作りかけの
バイオリンがあったりチェロがあったりその合間に作りかけの楽器にニスを塗ったりと結構
忙しい。数本の楽器を一度に磨き始めると指紋が紙やすりで擦り切れ、指先がピンク色になり
ひりひりしてくる。それでもタバコとコーヒーを飲み続ければ朝まで楽器を作り続けることが出来た。
楽器は安いからすぐ売れるがまるで工場のように作るから、部屋にはいつも楽器がごろごろして
いる。当時ドイツから年に2回くらい楽器商が来ていた。彼らは大型ベンツでクレモナにやって来て
ごっそりバイオリンをドイツに持って帰る。彼らはある日突然やって来る。彼らは手当たり次第
部屋の楽器をかき集めると、パンパンにふくれあがったズボンの後ろポケットから無造作に札束を
つかみ出し、1枚づつ数えながら私の作業台の上に積み上げていく。お互いが札束と相手の目を
凝視しあう、お互いが了承した時に首を縦に振る、それは商談成立の合図である。
まるで西部劇
映画の一場面のようだった。いつも帰り際に「半年後にまた来る。楽器は何丁でも
買い取る」と
ひとこと言って去っていく。お金がなく困っていた私にとっては心の中では彼らは年に2回大きな
プレゼントを持って来るサンタクロースのようでもあった。彼らが立ち去ったあと部屋にあった
バイオリンビオラチェロはなくなり部屋はすっきり何もない。
 80年代のクレモナは私にとってイタリアンドリームであった。

 南ドイツのミッテンバルドには日本人バイオリンディーラーのH氏がおられる。H氏も80年代には
年に数回来られていた。その頃クレモナには10人くらいのバイオリン製作者がいてH氏が来ると
レストランで昼食会に招待された。いつも5〜6人のお腹をすかせたバイオリン職人は毎回同席して
いた。中でも私が一番テンションが上がっていたと思う。なにしろ、この時ばかりと
胃袋にピザやスパゲッティを入れ込んだ。
 私は現在2匹の犬を飼っている。1匹は秋田犬の「シュウ」でこの犬は小さい頃大事に育てられ
餌を食べる時もゆっくり食べる。もう1匹の犬が横取りしようが別に怒らない。今食べるものが
なくなっても半日待てば出てくるものと信じきっているからだろう。もう1匹の犬「コタロー」はもと
放浪生活が長かったらしく食べ物には貪欲である。私が飼い始めた時すでに2〜3才になっていた
りっぱな雑種である。私の家は山の近くにあり季節折々の山の恵みがある。散歩に出ると春は
どんぐりと竹の子、秋は栗と山柿が道に落ちている。「コタロー」はこの時期になると散歩中ずっと
それらを食べ続けるながら散歩を続ける。硬いどんぐりであろうと渋柿であろうが喜んで食べる。
道に筍が出ていようものなら上手に口で皮を剥き、芯にある筍をおいしそうに食べる。山の奥に
テニスコートがあり、その近くまで首輪をはずして遊ばせたことがある。たまにテニスボールが
道端の草の陰に見つかることがある。ゴールデンレトリーバーがよくボールで飼い主と一緒に
遊んでいる光景はあるが、コタローはそのテニスボールを投げるとレトリーバーのようにボールを
追いかけるが、あろうことかこの犬は、テニスボールを粉々に噛み砕き、
筍の皮をむくと中から
食べられる部分がでてくるのと同じようにして、ボールの芯が出るまでぼろぼろに噛み砕き食べ
ようとする。小太郎にとってボールは遊び道具ではなくトゲのなかの栗の実のようであり
食物でもあるのだ。こんな具合だからドッグフードはよろこんで食べる。まるで戦場で何日間も
食べなかった兵士のようにものすごい勢いで一気に飲み込んでしまう。昔飼っていた初代コタローも
もと野良犬で食欲旺盛だったが小さい時に飼い始めたのでそのうち普通の犬と同じ速さで食べる
ようになった。
どんぐりも食べなかった。2代目コタローは全てのものを食べ、全てのものを消化する。
人間が飼っているが自然界の野生動物のようでもある。今では私も54歳となり、食べる量もすこしずつ
減ってきた。このコタローを見ているとH氏がご馳走してくれる、チーズがたっぷりかかったクワットロ
スタジョーネやピザや魚介類の中にトマトソースがかかっているボンゴレスパゲッティなどをバクバク
食べていたあの頃の自分を思い出す。食べ物を舌で味わうのではなく、胃袋にかかる負荷で食欲を
満たすあの感動は遠い昔の出来事となった。2代目コタローの食欲はいつまで続くのだろう。
 当時住んでいたピチェネンゴ村ではクレモナの町の人たちとはちょっと違う食物も食べられた。
家の周りは見渡す限りの畑だったので自然がいっぱいあった。その村に長年住んでいるモンフレ
ディーニ一家は3人の子供がいて昔私が住んでいたこの農家が農場経営をしていた時、そこで
働いていた一家である。私は彼らから色々なことを学んだ。畑の周りには水路があり、そこには
蛙がたくさんいる。それを捕まえ食べるのである。私は小さい蛙を骨ごと食べるのが好きだった。
フライにすると香ばしくパリパリしておいしい。現代のクレモナ人は普通蛙は食べないが田舎の老人が
経営している素朴なトラットリアに行くか、街中だったら高級レストランに行けばおいしい蛙料理が
食べられる。私の住んでいた家の前には大きな庭があった。そこにはフキのような葉の大きな草が
あり、雨が続きじめじめしてくるとその葉っぱには小さなカタツムリが大量発生してくる。それを
捕まえて食べるのである。私は大概のものは食べるがカタツムリは食べなかった。モンフレディーニ
一家はこんなおいしいものを食べないのはもったいない話だと残念がっていたが、その時季に
なると一家総出で私の庭のカタツムリをにこにこしながら捕まえていた。
 クレモナの町の横にはイタリア最長の川ポー川が流れている。トリノからヴェネツィアまでイタリアを
横断している大河だ。クレモナはちょうどその中間地点にある。クレモナから数km下流のモンティ
チェッリ村(ピアチェンツァ)ではポー川がいったん二股に分かれていて、その片方には水力発電所
のダムがある。5月になるとアドリア海からニシンやボラが産卵のため遡上してくる。このダムが
ある方はそこでせき止められるので魚のいけすのようになる。その産卵時期になると絶好の釣り場
となりまさしくいれぐい状態となる。調子の良い日は1時間釣りをすれば持って帰れないくらい
ニシンが釣れる。私は料理の腕が無いのでそれらをおいしく食べたことはなかった。ニシンも日本
のものとは違って30〜40cmと大きすぎて味はおお味でやたら骨が多かった。フランスではこの
鰊は高級料理である。
 私の住んでいるセスト通りをはさんでその前には大きなとうもろこし畑があった。家畜用なので
それらのとうもろこしはおいしくないものだった。刈入れの後は何台もの大型トラックが来て何百頭
の羊がその畑に2〜3日放たれる。羊は畑に残った草を食べ糞をするのでそれらがまた肥料と
なるのだろう。今流行のリサイクルである。毎年ある時季になって朝起きるとメェーメェーと泣き声が
聞こえ、あたり一面は真っ白な羊だらけになっていた。のどかな田舎暮らしだった。

 ピチェネンゴ村で水道とガス無しの生活が続いた次の年に工事が始まり、普通の生活ができるように
なって初めにベルギー人のイザベラとスウェーデン人のシャスティンが20〜30m離れた一角に住むよう
になった。その後ナポリ人のミケッラ、そしてドイツ人のヴオルフが私の2階の2部屋を借りるようになった。
合計5人の外国籍のバイオリン作りが集まった。私だけが10歳くらい年上だった。そして私だけが労働
許可を取得していていちおうプロだった。しかし、みんなからはそんなことより水道ガス無しで1年間も
生活を続けたサバイバル風バイオリン作りの私は、誰も真似できないのでいちもく置かれていて、何を
やるにもこの農家(カッシーナ)内の出来事の相談に来てくれた。そして生活はみんな大変だったが、
みんな争ってより良いバイオリン作りを目指し、また青春を謳歌していた。そして3〜4年はあっという間
に過ぎた。ある年の5月大パーティをすることになった。100個のパンとリヤカーにレタスをいっぱい
買い込み、ワインは参加者の持ち込みとなり、多くのバイオリン作り、バイオリン製作学校の教師また
その人達の知り合いも加わり100人位のパーティとなった。ワインも入り、太陽も沈みあたりが暗くなって
から急に私が呼ばれた。家の前の広場には机が用意され、その上に大きな布が掛けられており、
一緒に住んでいるイザベラ、シャスティン、ミケーレ、ヴォルフそして同じピチェネンゴ村に住んでいる
弓作りの2人エミッリョとアントニエッタの計6人が私の誕生日のお祝いにテーブルの上にのせられた
大きなものをプレゼントしてくれた。布を取ると大きなガラスケースに中に1本のバイオリンが吊り下げら
れていた。その瞬間私は意味が解らずバイオリン作りにバイオリンをプレゼントされてもあまり嬉しくなく
「なんでバイオリンなんや」と思った。皆はニコニコしていてバイオリンを見てみろと言い出し、私はゆっくり
ケースをあけそのバイオリンを手に取った。あまり美しいものではなかったどちらかと言うとへたくそな
バイオリンだった。そのバイオリンのf孔から中のラベルを見ても辺りが暗くよく見えなかったのでパーティ用
に外にぶらさげられている裸電球の下に持って行き、もう一度ラベルを見た。
 
するとなんとそこには1981年Perugia IWAI TAKAOと書いてあった。人間はあるとき、今まで
の出来事が走馬灯のようによみがえると聞いた事はあったが体験した事はなかった。しかしこの瞬間私は
f孔の中の手書きのラベルを見ながら、この10年間クレモナで体験した事が次々と思い出され全身がほてり
始めた。なぜここにこのバイオリンがあるのか知らないが、驚きと喜びが一度に押し寄せてきた。私は訳が
判らないままみんなに「ありがとう、信じられない、ありがとう、何で個々にこれがあるの?」と繰り返すしか
なかった。後にわかった事だが私の友人6人がこのバイオリンを見つけ買い取って私の誕生日にプレゼント
してくれたものだった。このバイオリンは1981年Perugiaで作り、クレモナで売りたかったが2万円でも
売れずクレモナの楽器商とバイオリン材料3台分と交換したものだった。
暗闇の中でf孔を覗きながら自分のバイオリンと知った。こんな感動的なプレゼントをもらった私はなんと
幸せなバイオリン職人なんだろう。今もあの時のことを思うと大変だったあの10年間がよみがえる。
私たちはみんな友達とともに生きている。どんな良いバイオリンを作るより本物の友達をつくることのほうが、
もっと大切だと思った。あの感動を与えてくれた友達は私の青春のすべてだった。

 私はよく引越しをする。日本に居る時も18歳の時、京都上京区の実家を出て自活するようになってからは
北区、中京区 南区と京都の色々な所に住んだ。自らより良い環境を求めて大阪、信州松本にも行った。
あげくの果てイタリアまで来てペルージャでは2回アパートを変わった。朝早く、また夜遅くまでバイオリンを
作ったのでよくアパートの階下の住人からうるさいと床をつつかれ、そのうち大家さんから部屋を変わって
くれと言われた。
 クレモナでは初めバイオリン製作学校の裏にあるVia Dolciaに住んだ。6畳くらいの1間だった。トイレは
外にあるトルコ式の共同便所だった。2軒目の家はVia Castelleoneに引っ越した。この時は自分一人で
自転車で数往復すると引越しは終わった。荷物も少なかったし作業台も折りたたみ式の小さいものしか
持っていなかったからだ。2回目の家は2部屋となり倍の広さになった。3回目はPicenengo村に引越した。
この時はリヤカーが必要なくらい物が増えていた。この3回目の家は部屋数は数えられないくらい一杯あった。
4回目の最後の引越しは、住まいと仕事場を分けたVia Ippocastaniに住みVia F. Datteriで仕事をした。
この時はトラックが必要だった。1
2年後日本に帰国する時はリュックサックと自転車1台で来た荷物は
5〜6mあるコンテナいっぱいに増えていた。当時クレモナに住んでいた日本人は10人位だったので
引越しの時は皆助け合っていた。私は他の人より多く引越しをしたので、その度に皆に助けられた。
 最後の仕事場になったVia F. Datteliに工房があった時、
その隣にある日本人が日本からやって来た。
彼は田口隆と言って今もクレモナにいて、修理調整で有名なブルースカールソの工房で働いている。
当時彼は大学を卒業したところで若かった。クレモナに来るために日本では航空貨物の人足のアルバイト
経験者で大変力持ちだった。私もPicenengo村ではマエストロモラッシーの息子シミオーネと意気投合して
自家製ベンチプレス台を作り兄弟子のニコラ・ラッザリと彼の友達のバルツァリーニと一緒にバーベルを使い
体力つくりにも励んでいた。毎週このメンバーで腕周りとか胸囲の寸法を測り、鉛筆で家の大黒柱に皆で書き込んで
いてそのうち柱が数字だらけになっていた。この特製のベンチプレス台はVia F. Dattelliに引っ越した時も
持って行った。この仕事場は2部屋あり1部屋は工房でもう1部屋はトレーニングルームとなっていた。
田口隆氏と私は隣同士なので、そのうち仲良くなり同じ目標を持つようになった。普段はバイオリンを作って
いるのだがいつも決まって夕方6時になるとドアがノックされ「岩井さん今日もあれやりましょうか」と田口氏が言ってくる。
「そやな。1時間後やろうか」と決まり、1時間で仕事の段取りをつけ終わると7時には2人で筋力トレーニングが始まる。
冬場は奥の部屋にある私のトレーニングルームでやるので問題はなかったが、夏は部屋が暑くなり過ぎるので、
我慢できず少しでも涼しい部屋の外に出る。そこは多くのイタリアのアパートがそうであるように、中庭があり広々
としていて家の中よりは風通しも少しは良い。その2人のトレーニングは私が帰国する前日までやったので2〜3年は
続いただろう。初めはベンチプレスも80kgくらいから始まったが帰国前は100kgを越えていた。この重量になると
必死にならないと上がらない。夏の暑い時は上半身裸になり、1人が上げるときは1人が補助役になる。ウーとか
アーとか声を発しながら、100kgを何回か持ち上げるとあまりの暑さで2人は息を弾ませながら中庭に出ては体温を
下げた。2人は日本語で会話をしていたので、同じアパートの住人は、意味がわからなかった。夕方になると2人の
日本人が上半身裸になって部屋を出たり入ったり楽しそうに会話をしている。それをほぼ毎日繰り返していた。
私達2人にとっては普通の行為だが
周りの日本語が判らないイタリア人にとってはきっと不思議な光景だっただろう。
 いまとなっては、彼はもう私よりずっと長くイタリアに暮らしている。私は毎年5月にイタリアに行くが、その時は
クレモナで2人で食事をする。この時決まって
「あの頃はバイオリンと全く関係が無いあんな事に夢中になってよく
やったなー」と話が盛り上がる。当時100kgを持ち上げること。それは何故か2人にとても重要であり達成感のある
事だった。
昨年その彼が、何年ぶりかに日本の私の家を尋ねてくれた。今もブルース・カールソンの工房で働き、
家でもバイオリンを作る事を続けていて、2007年のイタリアでのバイオリン製作コンクールで優勝して本職のほうも
がんばっているとの事。
 なんとそのコンクールの審査委員長は私のパルマ時代のマエストロであるスコラールベッツァだった。あのマエストロが
選び抜いた1本だからきっと玄人好みのバイオリンに違いない。彼も腕の良い、しぶい職人になったものだ。
これからの活躍が楽しみである。
 
私が日本に帰国してから彼は昔やっていた剣道を再開したとのこと。クレモナの街にも剣道の道場が出来たからだ。
今も汗を流しながら力いっぱい竹刀を振っているに違いない。私は週に3回自転車に乗り近くの峠を上り大量の汗を
流している。2人ともイタリアと日本、場所は違っているが今も昔もとにかく体を動かし汗を流すことが好きなようで
ある。

 
イタリア生活も10年を過ぎた頃から充実したものとなっていた。仕事もあるし友達も出来た。この街での暮らしに
馴染んでいた。このままずっとここで生きるのも良いなと思っていた。1980年〜1990年のクレモナはバイオリンの
歴史始まって以来の好景気となっていたし、EU(ヨーロッパ連合)前はイタリア人特有の人情も街中にあふれていた。
外国生活を1ヶ所で定住し10年以上経った。人々の多くがそう思うのと同じようにどこの国でも文化風習が違っていて
それぞれどこの国も良い面と悪い面がある。またどこの国でも現実生活では税金を納め、人並みの生活をする一庶民
は皆大変である。それはイタリアも日本も同じであった。日本を10年離れると今まで気づかなかった日本の良い
所も再発見した。

 
W 1992年以降
  私は京都で生まれ育ったので、子供の頃から四季折々にいろいろな行事をまじかに見ることができた。
祇園祭や葵祭り、そんなに大層なものでなくても毎月25日には北野天満宮の天神さん、20日の東寺のこうぼうさん
があり、出店の金魚すくいが小さい時から大好きだった。近所の和菓子屋では、毎月めまぐるしくメニューが変わり
よもぎ団子、桜餅、水無月、月見饅頭エトセトラ。その季節に合ったものが食べられる。春になると梅や桜の名所が
あり、夏になると鮎釣りを楽しめ、大文字焼きがあり、秋は高雄のもみじが真っ赤になる。小学校高学年になると
北山の貴船、鞍馬山、八瀬や大原にサイクリングに行った。中学生の時は年に1回愛宕山に登り徒競争があった。
高校になったら自転車クラブに入り、毎日周山街道をロードレーサーで走った。今から思うと四季折々の京都を満喫
していたことになる。クレモナで12年暮らして38歳になった時は「春は花、夏ホトトギス、秋は月、冬雪さえてすずし
かりける」道元禅師は日本人の心をうまく表現していることをイタリアで理解した。その頃から日本の素晴らしい国だと
思うようになった。その頃の私のバイオリンのラベルは竜安寺の石庭を思い出しそれをデザインしてある。
 窓から見える庭にしても幾何学模様に配列された華やかな草花
も良いが、一見無造作に見える松の木や大き
な石、苔むした庭はもっと良いものに感じ始めた。
 1992年11月日本に帰ることに決めた。帰国して初めは京都の亀岡に住んだ。人口9万人とクレモナとほぼ同じ
ような大きさの町だった。ポー川はなかったが、嵐山の上流にあたり保津川があった。イタリアで12年間バイオリン
作りを学んだし楽器製作コンクールでも数多くの賞をもらった。日本でも私の作った楽器は作れば簡単に売れるもの
と思っていた。しかし私の予想は大きくはずれ、いくら作ってもほとんど売れなかった。クレモナでは自分ひとりの力で
売っているように思っていたが、私の親方やクレモナのバイオリン製作者協会、クレモナの商工会議所、アマティ、
ストラディバリ、グアルネリなどが築き上げた400年間続いた伝統の有形無形の恩恵を受け、その街に住んで
バイオリンを作っていたから売れていたことをこの時初めて痛感した。

 もともとバイオリンは生活必需品でなくどちらかと言えば贅沢品なので、経済力のある豊かな国に流れる傾向が
ある。1982年以前は手工品のイタリアバイオリンはほとんど日本に入っていなかった。80年代後半から大量に
日本に入り始めた。イタリアには200人以上のバイオリン作りがいて1年間に1000本近いバイオリンが作られる。
そのうちの1/3は日本に入ってくる。それだけ現代日本人はバイオリンが好きなのである。イタリアは音楽が
盛んな国のように思われるが、現在イタリアのクラッシック音楽環境は最悪である。産経新聞によるとこんな記事が
書かれている。

(以下 産経新聞より一部引用)
 「オペラやオーケストラなどへの補助金は「上演事業への一括ファンド」という名称の予算に組み入れられており、
その配分比率はオペラとオーケストラ部門が48%、映画製作と演劇部門がそれぞれ約18%、舞踏・音楽部門が
15%などと決まっている。
ところが、2001年に就任したベルルスコーニ首相は財政の悪化を理由に、補助金の削減に着手。02年には
5億1300万ユーロだった補助金を05年には4億6400万ユーロに削減。さらに昨年秋には06年度分を35%
カットの3億ユーロにまで落とし、この状態が08年まで継続される見通しになった。このままでは、世界に誇る
伝統芸術のオペラ公演ができなくなるとして、オペラ劇場関係者らがイタリア各地で反対デモを実施。有名劇場は
公演を中止する騒ぎにも発展した。
一方、政府は遺跡や美術品保護のための文化予算の削減にも着手。文化財省の来年度の予算は4800万ユ
ーロの削減が見込まれ、新たな発掘はおろか、現在の遺跡や文化財の保護・維持にも支障が出ようとしている。
チャンピ大統領は昨年末の文化功労者授賞式で、「国の文化財維持の責任」を強調し、文化関係予算の大幅
削減を強く戒めていた。
しかし、実業界出身の首相の“そろばん勘定”の前にイタリアは、まさに重大な芸術の危機を迎えようとしている」

 このような状況になっていてもイタリアのバイオリン作りは好景気なのである。特に日本は大のお得意さんである。
イタリア人のすごいところは、常に自分達の作ったものは必ず世界中のどこかの国に売り込む事である。
私がイタリア生活で学んだことは板の厚みやニスの配合だけではなかった。労働許可を取得すると、バイオリン
製作者協会の会員となった。この協会では自分達の作った楽器をいかにして販売するかを協議実践する協会で
あり、役員は選挙によって選ばれ自分達の案が反映されることになっている。時にはクレモナ市や商工会議所
と連携して国際的な楽器展示会や国際楽器製作コンクールを開催したりする。イタリアのバイオリン作りはこの
30年間で30,000本以上の手工バイオリンを売り続けたことになる。工場の大量生産なら話はわかるが1本1本
手作りのバイオリンである。こんな事の出来る職人達は世界広しといえどもこの国だけである。特にクレモナの
100人のプロのバイオリン職人の団結力は素晴らしいものがある。どこの国にも1人や2人の有名な職人はいるが、
100人全体でそれをやってのけるのはたいしたものである。バイオリン職人達はお互い皆ライバルであり
仲の悪いものもいるが、必要な時には皆一団となって目標に向かって邁進する。亀岡で売れないバイオリンを
作っている時、以前よりもずっとクレモナのバイオリン職人が有能に思えた。あの職人達の逞しさを学ばなくては
クレモナに居た意味が半減してしまうように思った。私はそれを日本でも実践するしかないと思った。
 そこで日本にいるバイオリン職人に、クレモナのバイオリン作りのように組合活動を始めましょうと手紙を書き
同士を募った。しかし、ほとんど返事もなく唯一興味を示した人がいた。その人は女姓でクレモナでスコラーリ
(クレモナバイオリン製作学校副校長)の元で学び、日本に帰国した鈴木郁子さんだった。しかし楽器が売れない
二人だけでは組合活動が成立しにくいので、まず同士を増やすために職人育成をしようとバイオリン製作学校
を設立した。二人とも弦楽器業界の事も学校経営の事もずぶの素人だった。そして二人ともお金もなかった。
自分達でバイオリンを作ってそれを売り続けたいとの熱意だけは充分あった。学校はマンションの一室でスタート
した。何か物事を一から立ち上げる時は大変である。慣れるまでは大変だろうと思いながら続けたが、10年後も
同じように大変だった。大変な原因は採算を度外視した理想的な職人養成学校を求めたからだ。学校の
内容は日本で一番であったに違いない。イタリア語の授業はイタリア人が教えたし、製作指導は鈴木さんと
私が教えた。バイオリン演奏は楽器が弾ける生徒が居たので、弾ける人が弾けない人を教えた。生徒が増えて
からは年に一回モラッシーかスコラーリが来て指導してくれた。大変なのは学校の運営資金を確保する事だけ
だった。学校経営は理想を追求すると大変な事も解った。この学校は10年間続け21人の卒業生を送り出した。
関西にはそれほど多くの楽器店はなかった。バイオリン職人を必要とする店は21人で充分だった。
学校を終了した理由は、卒業生の就職先もないのに学生を増やし続けることはおかしいと思ったからである。
そもそも学校を作ったのは学校運営が目的ではなく、バイオリン職人養成が目的だったので、この卒業生達
と共に組合を作りイタリアのクレモナの職人がやっているような活動を目指した。

 1995年から2005年の10年間しか学校は存在しなかったが、関西には新しい職人が21人も誕生したことは
とても良かった。今後この職人達が、新しい形でこれからも発展していくに違いないと思っている。
私が
日本に帰国してからあっという間に15年が経った。イタリアでもそうだったが、売れない売れないと
思っていたが、バイオリンを12年作り続けると売れるようになったし、日本でも同じように15年作り続けたら
よく売れるようになった。楽器が売れると職人として嬉しい。この30年間を振り返ると、多くの人々が私の
やっていることに対して応援助言をしてくれた。私はバイオリン職人として今とても幸せである。この素晴らしい
仕事を私個人のものとして終わらせずに、イタリアのクレモナのように、バイオリン職人がその街の地場産業
として地域社会に必要とされるものに発展させていきたい。バイオリン職人としてある程度の経験も積んだし
自分自身の気力も体力もまだまだ充分ある。魚釣りや自転車も楽しいが、どんなものよりバイオリン作りが
一番楽しいことも解ってきた。私の残された人生はあと30年から40年ある。自分の思いを楽器に託し、
あと200〜250本の楽器を作れるだろう。実は奮闘するのはこれからなのだ。




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